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じゃがいもクラブの歴史

                  

 ここではじゃがいもクラブがどうやって出来たのか分かるように紹介していきます。歴史といえば大げさですが、開設からしばらく経つと昔のことを思い出すのも中々大変になってきたので、これからは「ホームページを見てくれ」と質問に答えようかなと思ってます。単なる怠け者の発想(?)です。かなり以前の記事などを紹介していきたいと思います。

 

第一話 スタートここから始まる。

①開設のきっかけは2001年秋の『こどものそら』映画上映会、札幌の学童保育所つばさクラブを紹介した映画を見ている間の託児を伊藤泉さんに頼んだのがそもそも。どんなに良い映画を見て苫小牧にも欲しいと思っても、親の思いだけではどうにもならない。とにかく指導員がいないことには。よくあることですが、悶々と日々を過ごしていたのです。誰かに頼もうにもつてはない。どうしょう~どうしよう~と。伊藤さんは素晴らしい保育者ですから誰か紹介してもらおうなんて虫の良いことを考えていました。

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

②伊藤さんから2002年の年賀状で、「学童の件引き受けてもいいですよ」と短いメッセージが来ました。今にして思えばこのはがき一枚で全てが始まったのです。雷に打たれたような衝撃でした。あの忙しい伊藤さんが引き受けてくれるとは!!!早速、障がい児の母親たちの連日の会議がはじまりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

③伊藤さんさえいればと後は強引でした。空き店舗をセイコーマートの隣りに借り、2月の11日にはもうお父ちゃんたちで改装工事に入りました。特に村上さんが大工さん、八島さんが建設関係の会社をしていらしたので速攻でできました。高橋は手伝いの小僧として働きました。その後もビラ配りや開設の宣伝のためのバザーなど、家族総出でやりました。伊藤さんが「引き受けても良いですよ』と言ってくれてから僅か3ヶ月で開設にこぎ着けたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

④市への支援要請は初年度からしていましたが、そりゃこんな怪しい任意団体を支援してくれるわけはありません。鳥越市長は『実績ないとね』とケンモホロロでした。こうして何の支援も何の補償もなく、まさにゼロからスタートし、本当に親と指導員の『共同学童保育所』が誕生したのです。

 

第二話 13人の冒険者船出

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑤親も冒険者、チャレンジャーだなぁホント。

 じゃがいもクラブはスタートしました、新聞記事にあるように4月に子どもたちは初顔あわせと入所式をしていきなり怒濤の春休み中の保育がスタートしました。何もかも初めてでとりあえずボランティアとして、親代表でわたし、高橋信光が保育手伝いに入りました。最初の一週間でくたくたに疲れ果て『こりゃ大変だー』と恐怖したのでした。それにしてもみんなよく自分の子どもをこんな、、、、(笑)どうなるかも分からない、手づくりおんぼろのクラブに入れる気になりましたよね。関係者以外にも人が集まり13人もいたこと自体が凄い奇跡のようでした。まさに子どもも親も指導員もみんな冒険者でした。入所式で紹介されたじゃがいもクラブの歌、伊藤泉さんのギター弾き語り今も強烈に覚えています。 

 (鉄腕アトムの替え歌で)

『 空を越えて ラララ星の彼方 行くぞポテト ジェットの限り  心優し ラララ科学の子 十万馬力だじゃがいもクラブ

耳を澄ませ ラララ目を見張れ そうだポテト 油断をするな 心ただし ラララ科学の子 七つの威力さじゃがいもクラブ                                                  

街角に ラララ海の底に 今日もポテト 人間守って  心弾む ラララ科学の子 みんなの友だち   じゃがいもクラブ』

 

いんゃーこの歌は強烈でした。なんで「科学の子」の部分を「自然」とかに変えなかったかのという問に泉さんは、至極明確に自信たっぷりと『信ちゃんこの頃は科学って良い響き、前向きってイメージだったのだから良いの、前向きで』と答えられました。そうかこれはじゃがいもクラブへの応援歌なのだと納得した次第。

この歌実はしばらくユメに出ましたからね。今でも鉄腕アトムの歌はウチの家族にとってじゃがいもクラブの歌です。泉さんありがとう。

 ※「信ちゃん」とは、じゃがいもクラブ創設メンバーで、現在も理事、2012年度まで当クラブの事務局長をされていた髙橋信光さんのことです。

 

その後NPO法人格も取得、(苫小牧8番目のNPO法人)今は苫小牧市の委託事業としても認可、市の留守家庭児童会や児童館では出来ない部分に手が届く、そんな保育活動をしています。

設立当初の会議風景です。

クラブ内の工事は全て保護者の手作業で行いました。

学童保育所とは、放課後の小学生の居場所、いわば第二の家庭です。こどもたちはみんな『ただいま』と帰ってきます。指導員はそれに『おかえり』と答える。そんな子どもにとって暖かい場所です。この学童保育所は2002年、親と指導員たちで集まって作りました。苫小牧市内の小学校にある留守家庭児童会では、障がいのある子どもは通えませんでした。それに小学3年までしか通えません。健常児の兄や姉がいても一緒に通えず、土曜日も休み。夏休みも冬休みも春休みも休み。帰りは4時半。これは働く両親にとっても大変な問題でした。さらに児童館では障がい児は親同伴でないと利用できないと断られ、、、私たちはそれらのことを何とかしたくて、市にお願いしたり色々したりした後、最終的には親と指導員が共同で、自分たちで納得いくように作ってしまいました。そんな『子どもの親の子どもの親による子どものための学童保育所』それが   

「共同保育所 じゃがいもクラブです」

 

            初代事務局長(保護者)高橋信光      

 

 

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